益田市の四塚山古墳出土の銅鏡の考察

益田市内の大型古墳についての考察

益田市における四塚山古墳群と大型前方後円墳

              

               四塚山古墳群出土の同笵鏡(長法寺南原古墳出土)


     四塚山古墳群についての考察
  島根県益田市三角縁神獣鏡が出土したという。西日本の西の端で初期大和政権が、その勢力下に属する首長に対し配布したとされる三角縁神獣鏡が出土したのである。それも以前から4基の塚が存在していたことに由来する四塚山古墳群から、山陰地で初めての三角縁神獣鏡の一部が出土したというのである。この事は古墳時代早期において、すでに山陰地方の西端部まで初期大和政権に属していた事を示すものであり、何故この地域を王権が重視したのか興味深く、この三角縁神獣鏡について考えてみよう。 

1.四塚山古墳群の名称から考えられること
  まず四塚山古墳群の名称について、元は四ツの塚があった事に由来している様であるが、実は四ツの塚ではなく築造当時は2基の前方後円墳であった事が考えられるのである。即ち、前方後円墳の墳丘部が盛り上がった前方部と後円部が、長い年月により変形し、また周りの土砂により埋もれ、下の掲載写真のように、残された前方部と後円部が塚として地表に残され、それが四塚の名称の元になったと考えられるのである。なお掲載写真は球磨郡錦町にある、全長50mの前方後円墳(亀塚3号墳)である。
  そして出土した鏡は、この時代において権威の象徴であり、その鏡を副葬していたからにはこの地域を治めた首長以外に考えられず、さらに、その鏡が大和王権により配布された三角縁神獣鏡であることを考えると、大和王権がこだわり続けた前方後円墳であったことは確かなようである。
 さらに今回出土した鏡と同じ鋳型で制作された『同笵鏡』が、これまでの研究により近畿地域を中心に9面が確認され、これらの同笵鏡が出土した古墳の墳墓型式も、ほぼ全てが前方後円墳であることから、四塚山古墳群が前方後円墳であったことは間違いないようである。
  そこで四塚山古墳群があったとされる場所を、グーグルマップを使って上空から確認してみると農地に適さない丘陵部を利用し、そこに築造したと思われ、限られたスペースに二基の前方後円墳を想定すると、全長20~30m程度の大きさが想定される。それにしても、団地の造成に伴い現場から、個人により採取された様であるが、その前に何とか発掘調査できなかったものかと悔やまれる。

                                                  

                  四塚山古墳群出土(三角縁神獣鏡)                 亀塚3号墳 


2.四塚山古墳群と同じ同笵鏡が副葬された古墳
 この様な出現期の前方後円墳群については、これまで各地での発掘調査結果が示されており、四塚山古墳群の様な場合、一般的に最初に前方後方墳が3世紀中頃~終わりにかけて築かれ、次に前方後円墳が4世紀になってから築造される事が知られている。従って、ここには前方後方墳前方後円墳の二基が築かれていた事が想像される。しかし何故、最初に築かれるのが前方後円墳ではなく前方後方墳であるのかは解明されておらず定かでない。
 そして、これまで三角縁神獣鏡は4世紀以降の古墳から出土することから、今回の鏡は前方後方墳の次に4世紀になって築かれた、前方後円墳に副葬されていた鏡であることが考えられる。また各地で出土した同笵鏡の年代からも、古墳時代前期中葉(4世紀前半)の築造と考えられている。
  そこで下表の様な、四塚山古墳群出土の同笵鏡と同じ同笵鏡を副葬していた、他地域の古墳との間で何か得られるものはないかと一覧表を作成してみた。

     

   ※四塚山古墳と同じ同笵鏡の出土数9面、出土地8ヶ所。
   ※鏡数三角縁神獣鏡を含めた発掘時の鏡の数である。
        ※石切神社に所蔵されている三角縁神獣鏡については、神社近くの塚山古墳(全長  
    30m、円墳)又は前方後円墳から出土とも考えられている。

 上表から分かるように、9ヶ所の古墳から10面出土の同笵鏡が出土していおり、この出土数は三角縁神獣鏡の同笵鏡としては最多とされている。これらの中国・北朝系の同笵鏡は、古墳時代初期において近畿を中心に多く分布し、政治的色合いの強い鏡とされている。
 そして一覧表の様に、近畿を中心に東海地方を含めた初期古墳への、多数の三角縁神獣鏡の副葬は、大和王権を中心とする強い同盟関係の存在を示すものであろう。また墳丘墓の大きさや、威信材としての鏡の数からして、生前の力の大きさがうかがえる。それに比べ四塚山古墳からは副葬品も見当たらず鏡が1面だけであり、これを近畿の古墳と同一次元で比較するのは無理であり、石見地方特有の葬送儀礼であろうか。
 また、これらの地域とかけ離れた、本州最西端に近い石見から出土したことは、4世紀前半には山陰地方の益田を含めた、日本列島の広範囲に及ぶ地域が大和政権の影響下にあったことを示している。

             

            四塚山古墳と同じ同笵鏡の出土地一覧     

3.益田の置かれた地理的位置
 そこで上図の同笵鏡の分布から、四塚山古墳に一番近い神戸のヘボソ塚古墳までの距離はを見ると、直線距離で300㎞以上離もれており、それにも関わらず山陰の西端の地からこのような鏡が出土したのは、どの様な理由が考えられるであろうか。

 本来なら大和王権と緊密な関係であった近畿周辺の首長のみに配布された同笵鏡であったが、大和から遠く離れた益田からの同笵鏡が出土は、この時にあっては近畿の首長と同じくらい重要な地域であったことを示している。

 当時、益田は中国山地から流れ出す高津川と益田川が河口部で合流し、現在の益田(吉田)平野はまだ形成されておらず、平野部一帯は海と繋がったラグーン(潟湖(せきこ))であった。従って、そこから得られる生産物は決して多くはなく、権力の根源をそこに求めるのは無理であり、農業生産とは異なる何か別な理由が考えられるのである。
 そう考えて地図を見ると、益田が日本海に面しているのに対し、近畿をはじめとした地域では瀬戸内海航路の要衝に位置する、神戸のヘボソ塚古墳を除けば全て内陸部に築造されている事が解る。そこで日本海沿いに着目して見ていくと、北部九州と出雲は日本海側を通じて繋がり、その中間に益田が位置することに気がつく。
  そして古墳時代前期においては、北部九州と出雲の土器が互いに出土し、出雲から九州さらに朝鮮半島へと日本海を通じての交易が盛んに行われていた事を示している。このような日本海交易における中継地として、補給・休養・修理が可能な港湾がどうしても必要であり、地理的に航海上の要衝に位置していた益田の地が占める役割は大きかった。
 そして、当時の潟湖が中継地としての良港をなし、その後も近世に至るまで益田の発展を支えてきたのである。現在、中世益田氏の館跡として、三宅御土居跡(みやけおどいあと)の一部が保存されているが、そこは遙か以前より港湾施設として、日本海交易における交易拠点であったのである。

 発掘調査をすると古墳時代弥生時代の土器から近世までの遺物が途切れなく出土し、古代から港(津)として利用されていた。従って、この様な日本海交易において重要な位置を占める益田の地理的条件を、大和政権が重要視し、三角縁神獣鏡をこの地にもたらしたとも考えられる。

         益田市教育委員会 理科自然編      masuda japan heritageより

          

             縄文時代のごろの益田       三宅御土居

4.日本書紀の気になる記事
 そこで思い出されるのが、よく引き合いに出される、日本書紀崇神紀六十年の条)の記事である。第10代の崇神天皇が出雲に伝えられた神宝(出雲の支配権の象徴)を要求するのであるが、『神宝を管理していたのは出雲臣の遠い祖先である出雲振根(出雲氏系譜では11代)であったが、筑紫国(北部九州)へ行って留守だったので、弟の飯入根が独断で皇命をうけて、弟の甘美韓日狭と息子の鸕濡渟(うかずくぬ)につけて、神宝を貢上してしまった。』以下省略
 この記事で注目すべきは、出雲振根が筑紫国(北部九州)へ行き留守だったと言うことである。出雲と筑紫は古くより日本海を通じて繋がっており、両地域は同盟関係とも言える親しい関係であった。この時期、出雲国の置かれた状況として、出雲の首長自らが赴いており、よほど重要な話し合いが持たれたのであろう。しかも、その留守に神宝(支配権)を渡したというのも、出雲国も大和政権の勢力拡大に伴う圧力に差し迫られ、その対応策を北部九州に求めたのではなかろうか。
 そこで、出雲振根が訪れた筑紫とは実際にどこを指さすのであろうか。両者は同じ海人族であり、日本海を交易圏とする物資の交流を通じ、地理的にも歴史的にも北部九州と深く繋がっていた。そして古事記に、宗像大社の奉じる三女神の田心姫(タゴリヒメ)は出雲の大国主の妻とされ、出雲大社境内の筑紫社に祀られていることから、出雲振根が赴いていたのは、北部九州の宗像であった。

 この様な血縁関係を生じさせるような緊密な関係は、両地域に同盟や政治的連携の存在を示しており、そのため首長自身が出雲から宗像を訪れたのであろう。なお米子の友人に、この辺りで九州の神社と言えばと尋ねると、『宗像神社であろう』と即座に答え、米子市には立派な宗像神社が鎮座ししており、現在でも出雲地域と北部九州の強い絆を感ることができる。
  このような状況下にあって考えられることは、穿った考えをするなら、大和王権にとって出雲の支配権を得るには、両地域の分断を図り出雲を孤立化する必要があった。そこで最も地理的にも条件の適した益田に目を付け、その証として鋳上りの良い同笵鏡が、四塚山古墳群の被葬者に与えられた。この様に考えると、大和政権がどの様にして西日本西部へ勢力拡大していったかを知るうえで重要な鏡である。

          yahoo口コミ写真より      文化庁国指定文化財より

                    

              出雲大社                                 田心姫を祀る沖津宮遙拝所

5.この時期大和政権が考えていたこと
  大和王権が出雲に圧力をかけていた時期(古墳時代前期前葉)、彼らが考えていたことは、農業生産の飛躍的な増産をもたらす農具としての鉄であり、武器としての鉄の取得であった。それまで鉄は列島内では生産できず、朝鮮半島南部で生産される鉄を輸入しており、その際に歴史的にも地理的にも関係の深かった北部九州が鉄を独占しており、北部九州を通さなければ手に入れることができなかった。
 そこで大和政権は北部九州を返さず、直接朝鮮半島から鉄を入手しようと動き出し、北部九州との関係が深く、それまで鉄を大量に入手していた出雲に圧力をかけてきたのであろう。それに対し出雲振根がその対策を話し合うため、首長自身が宗像を訪れたのである。
   その後、土器などからそれまでの日本海交易が衰退したことがうかがえ、これまでの北部九州に替わり、新たに大和政権による鉄の輸入が始まった事を示しており、益田での三角神獣鏡の出土は、四塚山古墳の被葬者もこの新たな交易に加わったとみられる。また出雲では、それまでの方墳や前方後方墳から円分や前方後円墳に墳墓型式が置き換わり、日本海沿岸に大型古墳が築かれていく。(古墳の編年表参照)

 なかでも丹後半島前方後円墳である網野銚子山古墳(4世紀末~5世紀初頭、全長207m)は日本海沿岸で最大である。そして益田においても同時期の大元1号墳や県下最大とされるスクモ塚古墳が築かれ、これらの大型古墳の存在は、日本海交易において益田の置かれた地理的な位置関係を大和政権が重視した事の現れである。 

              益田市の主要古墳の編年表より 一部変更 

           ※白抜きは時代がまだ確定していない古墳

6.日本書紀との年代的整合性
 ところで、この様な日本書紀の記事と、今回出土した鏡との間に年代的な整合性があるのか考えてみよう。まず出土した鏡は4世紀始めの古墳からであり、これは動かせない。次に崇神天皇の治世は、およそ3世紀中頃から4世紀後半に推定されており、この時期の出雲の墓制は、それまでの西谷墳墓群に見られるような四隅突出型墳丘墓から、それに替わって前方後円墳が出現するようになる。
 この事は、それまでの出雲に君臨していた出雲振根を首長とする出雲国が、崇神天皇の頃に大和政権の軍門に降ったことを意味しているのであろう。そして出雲が大和に屈した時期、四塚山古墳群の被葬者も墳墓型式や鏡の出土から、大和からの働きかけがあったのか、あるいは自ら大和王権に近づいていったと考えられ、四塚山古墳の被葬者は期を見るに機敏であった。この事はその後の大型の前方後円墳を出現させ、大和王権との密接な関係を背景に、その恩恵を十分享受することができたであろう。 

      西日本古道紀行より        案内板より

         

      四隅突出型弥生墳丘墓    大寺古墳(出雲最古の前方後円墳

7.益田平野における首長墓系譜

 『益田市の主要古墳の編年表』から解るように、3世紀後葉に四塚山古墳群が築かれ、その後1世紀を経た4世後半に大元1号やスクモ塚古墳が築造されている。さらにこれらの大型前方後円墳から、約1世紀下った6世紀初に小丸山古墳が築かれている事がわかる。
 この様に首長墓との間に約1世紀ごとの隔たりがあり、この間の首長墓についてはどの様になっていたのであろうか。当然その間にも首長は存在したはずであり、何らかの墳墓が築かれたが、その規模がこれらの大型古墳に比べ余りにも小さく、また円墳であった可能性さえ考えられ、首長墓と気づかれないまま存在しているのであろう。

 これらの小古墳が、編年表に見える木原古墳であり金山古墳と考えると、木原古墳の場合、住宅の裏山の山頂に築かれ(寺坂吉右衛門の墓碑近く)、周りの木々がなかったなら距離的にも近く、大元古墳を見通す事ができ、両古墳の間に関係があったことを強く感じさせる。古墳の編年表では、大元古墳の後に築かれたことになっているが、木原古墳の主体部が箱式石棺であることや、後続する古墳の状況や年代を考えると、木原が先でその後に大元1号が築造されたと思われる。

 同様に金山古墳についてもスクモ塚古墳の次か、或いは近い時期に造られたと考えられ、直線距離で600mの近くに築かれているものの、墳丘が大きく削られているためはっきりしせず、発掘調査の結果、墳丘が葺き石された造り出し部を持つ円墳であることが分かった。出土した高坏から5世紀前半から中頃にかけて築造と考えられている。

 従って、金山古墳が大型前方後円墳に後続する首長墓と考えるなら、大元から小丸山までの古墳の系譜は、木原古墳→大元古墳→スクモ塚古墳→金山古墳→(数代に渡る小古墳)→小丸山古墳、の順に築かれたと考えられる。

 また金山古墳を5世紀前半から中頃とすると、これに後続する丸山古墳までの数代に渡る首長墓の存在が考えられ、益田平野の東側丘陵地に、これらの古墳と一緒に集中して築かれた多くの円墳の中に、後続する首長墓が含まれているのであろう。これらの小古墳の被葬者は、大和政権に対し積極的な行動を取ることもなく、王権と接する機会がなかったためと考えられ、この様に前方後円墳の築造に当たっては、大和政権との関係が大きく影響を及ぼしてるいる事がわかる。

 このような大型前方後円墳の存在は、大和政権との関係が密接であった事の証であり、スクモ塚古墳に至っては県下最大と破格の扱いである。『古墳の大きさは被葬者の生前における、権力大きさに比例する』という大いなる約束に従えば、スクモ塚に葬られた人物は、益田平野のみならず石西一帯をその勢力範囲とし、そこに君臨した人物像が浮かび上がってくる。

   埋蔵文化センターのパンフより   昭和57の調査益田教育委員会より

                              

                          金山古墳                                  木原古墳

8大和王権の列島規模の動きと、それに伴う首長墓の築造

 ところで、この様な益田における大型前方後円墳の出現時期と、列島内を揺るがすような大きな出来事とが、深く関連しているように考えられるのである。即ち4世紀後葉になると、大和政権は鉄資源や最新技術を求めて朝鮮半島へ出兵を開始し、大変な時期を迎える事になる。それに伴い地理的にも朝鮮半島に近く、また日本海交易を通じて北部九州や朝鮮半島とも関係の深かった、益田をはじめとした日本海沿岸地域からも多くの兵士が動員されたと考えられる。

 そしてこの時期に、大元1号墳とスクモ塚古墳の大型前方後円墳が、時期的に近接して築かれていることから、大和政権による朝鮮半島出兵と、これらの大型古墳との間に何らかの関連があるのではなかろうか。

 勝手な想像が許されるなら、朝鮮出兵に伴う敗戦で戦死したことが考えられ、それに伴い大和政権により大型古墳の築造が許さてたのであろうか。また県下一を誇るスクモ塚の大きさは朝鮮半島での活躍が認められた、被葬者の功績の大きをを表しているのであろうか。

 この時期の出兵について、高句麗好太王碑によると『倭が391年に海を渡って百済新羅を攻め服属させた。しかし(好太王に)倭の侵略軍は破れ多くの死者を出した。』この碑文から、海を渡った倭の遠征軍が大敗した様子が見て取れる。

 また四〇〇年にも、倭との関連記事として好太王が歩兵と騎兵あわせて五万の兵を派遣したことが記されており、碑文の性質上誇張があるにせよ5万の兵を動かしている事から、391年の敗戦で被った損失は大きかったであろう。

 なお、この時の朝鮮半島への派兵を、日本側の資料である日本書紀では、第14代・仲哀天皇の后である神功皇后による、『三韓征伐の記事がこれに対応するもである

             益田市観光ガイドより

          

       大元古墳群          スクモ塚古墳    

9.益田における最後の大型前方後円墳

 これらの大型古墳から1世紀後の、6世紀始(古墳時代末期)に最後の大型前方後円墳である小丸山古墳が造られた。この時代になると、記紀風土記の記述から列島内の様子が窺え、西暦の527年(継体天皇21年)に筑紫磐井が大和に弓引く、古代史上最大の内線が勃発する。朝鮮半島南部へ出兵しようとした、近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を、筑紫君磐井が遮たのである。この時の大和の大王(天皇)は継体大王であったが、この時期に小丸山古墳が築かれている。

 そして小丸山古墳に後続する白上古墳が、それまでの墓域から大きく離れた益田平野の東側の、海岸線から離れた山中に築かれており、出土品などからも、それまでの首長墓と系譜を異にし、大和政権により新たに移動してきたとも考えられる。 

 それにしても、その周溝と外堤を巡らせた優美な姿は大和の古墳を彷彿させ、近畿から来た古墳造りの集団の下に制作されたのではなかろうか。そして、これらの丘陵地に築かれた前方後円墳からは日本海を望むことが出来、その事から彼らも漁労や他の集団と共に交易に携わる海人族であった事を示しているのであろう。

 この様に見ていくと、益田市内における大型前方後円墳の築造と、日本列島における歴史的な節目となるような大きな出来事とが連動しており、このことが益田市における大型前方後円墳の特徴であろう。

 即ち、古代の益田における歴史のなかで、大和政権を中心とした列島規模の歴史的出来事が大型古墳を出現させ、その古墳に葬られた人物こそ大和政権の一翼を担い、現在に繋がる益田の礎を築いた人物であろう。そしてこれらの大型古墳の存在は、大和王権との関係を積極的に求めて、列島内に乗り出していった被葬者に相応しいモニュメントである。

            

                 小丸山古墳                               白上古墳

10.益田平野以外の古墳群

  以上のような益田に点在する古墳に対し、益田市で製作されたパンフレットを見ると、益田川や高津川の上流地域に横穴式石室を持つ円墳が存在するのである。具体的に見ていくと、高津川の上流に位置し広島県との県境に近い匹見町に、江田古墳群や和田古墳あるいは丑首古墳、原田古墳といった円墳が広範囲に点在し、この地域はまさに中国山脈の中央部に当たる山中である。

 当時この地域に人が暮らしていたのか疑わしくなる様な地域であり、どうして古墳が築造されているのか不思議に思え、また益田川上流部の美都町においても、同様に山間部でありながら三谷古墳群が築かれている。

 そこで考えてみると、これらの古墳はいずれも古墳時代後期古墳群であり、この時代になると鉄器の普及や新たな技術の伝来により、それまで手の届かなかった所に手が届くようになったのである。その結果新たな開発が可能になり、それを示しめすように列島内での出土が稀な『U字形の唐スキ』が匹見町広瀬の古墳から出土している。この様な技術革新により、これらの地域にも古墳が築かれる様になったのである。

 あとがき
  今回、あえて四塚山古墳群出土の鏡に拘ったのは、現在九州の地に住んで居るものの益田で生を受けた者にとって、故郷は忘れがたいものであり、その地を離れ早半世紀の月日が流れ過ぎようとしいる。そして鏡の出土した下本郷には親戚もあり、そのため当時を思い出しながら、四塚山古墳群出土の鏡について書いてみることにした。

 下本郷に親戚があることから、この辺りの事はよく知っており、子頃に車が一台通るような舗装されていない道を、父親の運転する自転車の後ろに乗り、スクモ塚古墳の横を通って親戚の家に行っていた事を覚えている。当時スクモ塚は周りに何もない畑が広がるだけで、現在のような住宅地になるとは想像もできいような寂しい所であった。
 そのスクモ塚について、父親から不思議な話を聞いたことがある。『昔、壁土に使うのに良いと、スクモ塚を鍬で堀取っていたところ、ある日、白装束の神主が現れ、それを見た途端その男は寝込んでしまい、その後死んでしまった。』というものである。

 その話を聞いたときは、恐ろしい事もあるものだと思ったが、今にして思えば、古代からの文化財を傷つけないための教訓としての逸話であったのかも知れない。この様な話が知らず知らずのうちに古墳を身近に感じ、その事がいつの間にか古代史に興味を持つようになったのであろう。
  なお、このスクモ塚を発見したのは、地元で郷土研究に取り組まれていた矢富熊一郎先生であり、長年の研究結果が評価され叙勲されたことを聞き、その様な人物を輩出した益田市に対し誇らしく思えた。なお話は変わるが当時、益田市で有名な人物といえば徳川夢声であったことを思い出した。